死んだと思っていた兄覚馬が京都にいると知り、八重は20代半ばで京都へ転居します。
当時覚馬が住んでいたのは、幕末に将軍慶喜についてきた江戸の火消し=新門辰五郎が住んでいた家です。幽閉から解放された後ここを買い移り住みました。
建物は現存しません。
河原町御池下る、京都ホテルの向いへ移った、と資料にあるんですが、ほかの資料によると河原町通りの西側大黒屋書籍会社の隣、とある。
河原町通りをはさんで右か左か迷うんだけれど役所に申請している住所は「下丸屋町401番地」。河原町通りの東側が正しいんでないかな。この写真でいうと赤い看板のお店の場所にあっただろうと思われます。
この辺りはおそらく御池通りの拡張で大規模に変わったんではないでしょうか。
当時覚馬の家に出入りしてた人物が「百坪ほどの敷地で、台所ともに五室の家で36円で買い取られた」と書いています。台所をカウントするのかしないのか、五室は一階だけなのか、細かいところはどうもわかりませんが、大邸宅ってほどではなかったと思われます。明治になると隣が古本屋さんになってるようだし、大きな門構えもない、間口の小さい、京都の町屋建築だったんじゃないかな~?
覚馬は柿が好きで、床の間の掛け軸、庭にも柿を植えていたそうです。目が見えないのに掛け軸にもこだわる派。シャレオツ(死語)だ。
PR
当時覚馬の家に出入りしてた人物が「百坪ほどの敷地で、台所ともに五室の家で36円で買い取られた」と書いています。台所をカウントするのかしないのか、五室は一階だけなのか、細かいところはどうもわかりませんが、大邸宅ってほどではなかったと思われます。明治になると隣が古本屋さんになってるようだし、大きな門構えもない、間口の小さい、京都の町屋建築だったんじゃないかな~?
覚馬は柿が好きで、床の間の掛け軸、庭にも柿を植えていたそうです。目が見えないのに掛け軸にもこだわる派。シャレオツ(死語)だ。
PR