一時新島襄が覚馬の家に居候します。その間八重も覚馬の家に顔出しはしてたとは思いますが、もともと覚馬の意向で、聖書と英語の勉強に、八重は宣教師のところへ通っていました。襄が居候する前から、すでにある程度の付き合いというか知り合いではあったことは確かだろうな。
当時の女工場跡地には碑が立っています。
そして門構えは、寺町通りにある鴨沂高校に移築されています。
今はない新婚時代の八重たちの住まいも、鴨沂高校の東南角にありました。「八畳に六畳の二間で玄関、書斎が二畳食堂四畳半、庭は一坪くらいの小さな家」と八重の回想にあります。現代の都会の住居感覚からすると十分広いじゃないかと思いますが・・・八重はお武家さんの出だからね・・・。
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