借家に住んだのち、八重たち夫婦は新居を建ててそこへ移り住みます。
華族の高松保実邸を明治8年に借りて同志社英学校をそこで開設したわけですが、学校はその後今出川のほうへ校舎を建てて移転。元の学校にしていたところを、そのまま新島襄が買って新居を建てました。
あちこち校舎を建てたり家を建てたり、襄はどこからそんなに金が?と疑問に感じますが、まず学校関係はアメリカのキリスト関連から布教の費用として襄に送金がありまして、さらに襄に給料も払われていたようです。若いころは貧乏暮らししてても、当時としては襄はけっこう金持ちだったと考えていいでしょう。そうはいっても色々設立するための活動や、頻繁に客や学生を迎えたりと、出費もあったろうとは想像します。
新島旧邸は京都市の文化財指定をうけているので現存しておりまして、見ることもできます。
和用折衷のなかなか素敵なお宅です。玄関左に併設してあるのは、襄の両親を群馬から呼び寄せていたためで、玄関もべつの二世帯住宅の作り。
居間や食堂にはちょくちょく人が訪れてにぎわっていただろうと思います。風俗関連を調べようと読んだイザベラ・バードの本にも、新島邸を訪れた時の話が書いてあって驚いた。
長い期間海外生活をしてた襄は、帰るとガウンを着て、牛乳を飲み、葉巻を吸って過ごしていた様子。二階の寝室では二人の使用していたベッドもあります。
襄の求める洋食と、襄の両親の和食を作るのは、八重にはなかなか骨の折れることだったんじゃないか。台所はこじんまりしながらも機能的な作りで、使い勝手がよさそうです。
襄が亡くなった後も一人で八重はここに住んでいました。当時はほかに家もなく、うっそうとした暗い場所だったそうですが、八重は怖がることもなく忍び込んできた泥棒をうまいことやりすごしたとかなんとか。たいした肝のすわり具合です。
晩年同志社の学生や卒業生が正月に集まって、新島邸でカルタをやるのが恒例でした。少年時代に八重につっかかった徳富蘇峰はちょくちょく晩年の八重を訪ねてたらしく、襄の遺品整理の手伝いもしました。蘇峰、なかなか情に篤いいいやつです。
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和用折衷のなかなか素敵なお宅です。玄関左に併設してあるのは、襄の両親を群馬から呼び寄せていたためで、玄関もべつの二世帯住宅の作り。
居間や食堂にはちょくちょく人が訪れてにぎわっていただろうと思います。風俗関連を調べようと読んだイザベラ・バードの本にも、新島邸を訪れた時の話が書いてあって驚いた。
長い期間海外生活をしてた襄は、帰るとガウンを着て、牛乳を飲み、葉巻を吸って過ごしていた様子。二階の寝室では二人の使用していたベッドもあります。
襄の求める洋食と、襄の両親の和食を作るのは、八重にはなかなか骨の折れることだったんじゃないか。台所はこじんまりしながらも機能的な作りで、使い勝手がよさそうです。
襄が亡くなった後も一人で八重はここに住んでいました。当時はほかに家もなく、うっそうとした暗い場所だったそうですが、八重は怖がることもなく忍び込んできた泥棒をうまいことやりすごしたとかなんとか。たいした肝のすわり具合です。
晩年同志社の学生や卒業生が正月に集まって、新島邸でカルタをやるのが恒例でした。少年時代に八重につっかかった徳富蘇峰はちょくちょく晩年の八重を訪ねてたらしく、襄の遺品整理の手伝いもしました。蘇峰、なかなか情に篤いいいやつです。
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