おっと忘れてた。太鼓門から鐘の間に、代々の城主の説明板が立っています。
私が行ったときはまだ大河の盛り上がりもなく、むしろ大河ドラマで保科正之を取り上げてほしいぞ署名活動が行われていました。最近は大河ムードも盛り上がってきてるらしい。
会津戦争当時の城主、松平容保は城主の直系ではなく養子なのですね。水戸の徳川系が出自。だから余計に幕府の依頼をむげにできなかったのかなあ?
さてまっすぐ南方向へ進むとわりとすぐに表門の鉄門(くろがねもん)が。戦争時は城内で一番安全なのがこの鉄門だってことで、容保はこの門のところに本部を置いていたそうです。
門を入って左手にまっすぐ。月見櫓、が、あったところが見えます。【荒城の月】は鶴ヶ城を眺めて作られたそうで、碑がたっています。
この櫓の場所まで鉄門からすぐです。平坦な土地で敷地もこじんまりしているので、山城と違って訪問しやすい。ぜひ皆さんも行ってみてね。
こじんまりした空間に5千人以上が籠城していたんだと想像するとなかなかぞっとします。
月見櫓は本丸外郭をぐるっと白壁で囲んでいる一角でして、その壁のあった土手をつたって歩けます。
歩いていくと、天守から東の方向へ二の丸、三の丸があります。その方角へ目を向けると遠くに小田山が見える。
小田山の山肌で一部分木が無い(赤丸部分)。
戦争当時新政府軍がそこから大砲を城へ向かって撃ちました。遠くといっても余裕で肉眼でみえますので、当時そこから撃たれた砲が近づいてくるのが肉眼で見えたことでしょう。ひいい。
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門を入って左手にまっすぐ。月見櫓、が、あったところが見えます。【荒城の月】は鶴ヶ城を眺めて作られたそうで、碑がたっています。
この櫓の場所まで鉄門からすぐです。平坦な土地で敷地もこじんまりしているので、山城と違って訪問しやすい。ぜひ皆さんも行ってみてね。
こじんまりした空間に5千人以上が籠城していたんだと想像するとなかなかぞっとします。
月見櫓は本丸外郭をぐるっと白壁で囲んでいる一角でして、その壁のあった土手をつたって歩けます。
歩いていくと、天守から東の方向へ二の丸、三の丸があります。その方角へ目を向けると遠くに小田山が見える。
小田山の山肌で一部分木が無い(赤丸部分)。
戦争当時新政府軍がそこから大砲を城へ向かって撃ちました。遠くといっても余裕で肉眼でみえますので、当時そこから撃たれた砲が近づいてくるのが肉眼で見えたことでしょう。ひいい。
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